Essay

 
  【スローライフにつながるスローフォトとしてのピンホール写真】

 スローライフが今の人類の危機、地球環境の危機を救う、ひとつのキーワードとして注目されています。 まず、スローライフとは何でしょうか。これまで高度経済成長に代表されるように、私たちは子供の頃から、「グズやノロマは罪悪か敗者」勉強も仕事も生活も食べることさえ、出来るだけ急いで(ファースト)、競争をして、効率をどんどん上げることが善とされてきました。
  そのため、いつも時間がない、という脅迫感に襲われています。

  でもそれは何のため? 急いで効率を上げれば生産が拡大し(または収入が増えて)それが未来の幸福につながると単純に信じてきたからです。

  しかし本当の豊かさとは何でしょうか。未来の収入のために今の時間を犠牲にすることでしょうか。仮に収入が増えて、年収何億と稼いだら、それで幸せでしょうか。持つことによって、余計な心配や不安にさいなまれないでしょうか。
  将来の収入や資産が(個人でも国でも)幸せにつながるという、大きな幻想と誤解が今の人類の悲劇を生み出しているのではないでしょうか。

  食事もそうです。早くできて早く食べられるファーストフード。工場で画一的に人工的に生産された食べ物。これは満足できる食生活でしょうか。
  反面、地産地消で地場の野菜や魚を使って、アイデアと時間と手間をかけて、下手でもいい、自分たちが調理して、ゆっくり食べる食事がスローフードです。どちらがより満足度が高い食生活でしょうか。

  スローライフとは、必要最低限のものを地球(資源や他の命)から頂き、知恵と労力と時間を使って、必要最低限のエネルギーで、豊かな生活をエンジョイすることです。もちろん、科学技術の進歩による、恩恵は否定できません。大昔の生活に戻ることはできません。しかし、そこには調和ができるはずですし、進歩した科学技術を資源の有効活用やエネルギーの有効活用に結びつけることも必要です。
  要は、私たちの進歩という概念、幸福と言う概念を大きく替えることが、今大事なのです。

  さて、ピンホールカメラはなぜスローライフにつながるか、を話しましょう。
  カメラ技術はどんどん進歩していまいました。銀塩フィルムも無くなって来て、今はデジタルカメラの時代です。カメラの機械は電子回路ばかりで複雑、ブラックボックス化してしまいました。どうして写るのかは意識せずとも誰でも、それなりに綺麗な写真が撮れます。露出も気にせず、ピントさえ手ぶれ補正してくれる。失敗写真がありません。
  でもそうして撮れた優等生写真は本当に満足できる写真がでしょうか。記録としてなら申し分ないでしょうが、人に感動を与えられる、そして自分が感動できる写真が撮れるでしょうか。

  私のピンホールカメラには機械も電子回路もありません。露出は自動ではありません。ファインダーもありません。撮った後に現像してみないと、ちゃんと写っているか、どう写っているかは、全く分かりません。当然失敗はつきものです。
  一枚撮るためにはとても不便なプロセスが必要で、撮る時間もかかります。一枚に数秒から数分、ケースによっては何時間もかかる場合もあります。
  でもこの不便さや失敗がとても気持ちよいのです。

  ファインダーがないので、じっくりと対象を観察して構図を決めねばなりません。露出も戸外で慣れたカメラだと勘で大丈夫ですが、条件が違ったりするときちんと露出計で計って計算せねばなりません。そしてやっと露光。その露光時間も長いので、撮っている間の時間は、もう一度対象と会話する時間になります。

  しかし、そんな不便な撮り方で撮った写真の方が、機械でパチパチ簡単に撮った写真よりも、自分で満足できる作品になる確率が高いのです。それは自分の想いが、不便な撮影行為を通して凝縮されるからではないでしょうか。

  長い露光時間は、その時間を集めてフィルムに記録します。光はやっと少しずつ溜まってフィルムに感光します。
  当然失敗作は多いです。撮影の失敗、カメラの光漏れの失敗、現像の失敗。でも失敗を楽しむ余裕がここにはあります。

  失敗と思った写真が、予想外の素敵な写真になっていることもあります。偶然、風が吹いたり、人が歩いたり、車が通って素敵な写真になったりします。これこそがスローフォトの醍醐味です。何万年も続いてきた人間の営みの時間間隔に合う撮影方法だと思います。

(作成:2008年10月)

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